『死の棘』で第43回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ&国際批評家連盟賞をダブル受賞、『泥の河』『伽倻子のために』『眠る男』など海外でも高く評価される小栗康平監督の、十年ぶりとなる最新作だ。パリで絶賛を浴びた裸婦は日本画的でもあり、大東亜の理想のもとに描かれた“戦争協力画”は西洋の歴史画に近い。小栗監督は「これをねじれととるか、したたかさととるか。フジタは一筋縄で捉えられる画家ではない」と語る。戦後、「戦争責任」を問われたフジタはパリに戻り、フランス国籍を取得。以来、二度と日本の土を踏むことはなかった。フジタは二つの文化と時代を、どう超えようとしたのか。
フジタを演じるのは、韓国の鬼才キム・ギドク監督作品に出演するなど海外での活躍も目覚ましいオダギリジョー。フランスとの合作は本作が初めてである。映画の半分を占めるフランス語の猛特訓を受けて、見事にフジタを演じた。フジタの5番目の妻・君代役には、『電車男』『嫌われ松子の一生』『縫い裁つ人』などで名実ともに日本を代表する女優 中谷美紀。さらに、加瀬亮、りりィ、岸部一徳ら味わい深い個性派が集まった。フランス側のプロデューサーは、世界的大ヒットとなった『アメリ』のほか、アート系の作品も数多く手掛けるクローディー・オサール。静謐な映像美で描く、フジタの知られざる世界が現出した。
1976年2月16日生まれ。岡山県出身。『アカルイミライ』(03/黒沢清監督)で映画初主演を果たす。続く『あずみ』(03/北村龍平監督)で、日本アカデミー賞最優秀新人俳優賞を受賞。『血と骨』(04/崔洋一監督)で日本アカデミー賞、ブルーリボン賞の最優秀助演男優賞、『ゆれる』(06/西川美和監督)、『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』(07/松岡錠司監督)で日本アカデミー賞優秀主演男優賞、『舟を編む』(13/石井裕也監督)で同賞優秀助演男優賞を受賞。近年は、『PLASTIC CITY プラスティック・シティ』(09/ユー・リクウァイ監督)、『悲夢』(09/キム・ギドク監督)、『ウォーリー&ウルフ』(11/ティエン・チュアンチュアン監督)、『マイウェイ 12,000キロの真実』(11/カン・ジェギュ監督)、『ミスターGO!』(14/キム・ヨンファ監督)など海外の作品でも活躍。最新作は、『S –最後の警官-奪還』(15/平野俊一監督)、『合葬』(15/小林達夫監督)、『オーバー・フェンス』(16年公開予定/山下敦弘監督)など。
1976年1月12日生まれ。東京都出身。『壬生義士伝』(03/滝田洋二郎監督)で日本アカデミー賞優秀助演女優賞、『嫌われ松子の一生』(06/中島哲也監督)で同賞最優秀主演女優賞、『自虐の詩』(07/堤幸彦監督)で同賞優秀主演女優賞、『ゼロの焦点』(09/犬童一心監督)で同賞優秀助演女優賞、『阪急電車 片道15分の奇跡』(11/三宅喜重監督)で同賞優秀主演女優賞、『利休にたずねよ』(13/田中光敏監督)で同賞優秀助演女優賞を受賞。舞台では、2011年に初舞台「猟銃」で紀伊國屋演劇賞個人賞、読売演劇大賞優秀女優賞、2013年の「ロスト・イン・ヨンカーズ」では読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞。そのほか、『らせん』(98)、『リング』『リング2』(98・99)、『ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer』(00)、『電車男』(05)、『源氏物語 千年の謎』(11)、『繕い裁つ人』(15)ほか多数。
2010年、カンヌ国際映画祭で公式上映された『消えたシモン・ヴェルネール』での演技が高く評価され注目される。以降、フランス映画の新星として注目を集める。『最後のマイウェイ』(12)に出演。映画界でキャリアを積む一方、演劇界にも進出。2014年、シェイクスピア原作フランス語版「ロミオとジュリエット」のジュリエットを演じる。その他、フランスのTVドラマとしては史上最高の世界的ヒットとなっている「Les Revenants」に出演。
女優・歌手。アーチスト揃いの家庭に生まれ、幼少の頃より音楽、オペラ、演劇、映画、キャバレーのショーなどに親しむ。家族・親戚には、ジュリエット・ビノシュ、仏ミュージックホール界の代表的演出家ジャン=マリー・リヴィエール、パントマイム演出家、クラリネット奏者などがいる。バロック演劇、TVドラマ、ミュージカル、エキセントリックなジュリエットを演じた「ロミオとジュリエット」のパロディ劇への出演など、幅広いシーンで才能を発揮している。
ベルギー、イクル生まれ、ブリュッセル育ち。国立高等舞台芸術学校INSASで演技を学び、シェイクスピアの「夏の夜の夢」で舞台デビュー。『J'ai toujours voulu être une sainte』(03)で映画デビューを果たし、フランスのクレテイユ国際女性映画祭にて新人女優賞受賞。ナタリー・バイ、ジェラール・ドパルデュー、ミシェル・ピコリらとの共演を果たす。2008年のカンヌ国際映画祭では、『Demain j'arrête』で新人俳優・女優に送られるCannes Talentsにノミネート。
1974年11月9日生まれ。神奈川県出身。2000年に『五条霊戦記』で映画デビュー。2008年に『それでもボクはやってない』で、日本アカデミー賞優秀主演男優賞、ブルーリボン賞最優秀主演男優賞ほか、数々の賞を受賞する。国際的にも活躍し、『硫黄島からの手紙』(06)、『永遠の僕たち』(11)、『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ監督)などに出演。最新作は、2016年にアメリカ公開予定の話題作、巨匠マーティン・スコセッシ監督の『Silence』。
1952年2月17日生まれ。福岡県出身。1972年に歌手デビュー。女性シンガーソングライターの先駆けとして注目される。1974年にはシングル「私は泣いています」が、100万枚を超える驚異的なヒットを記録。女優としても、『夏の妹』(72)、『処刑遊戯』(79)などに出演して注目される。結婚、出産による活動休止を経て出演したTVドラマ「青い鳥」(97)で高く評価され、以来多数のTV・映画で、独特の存在感を発揮。最新作は、『合葬』(15)、『GONINサーガ』(15)。
1947年1月9日生まれ。京都府出身。1967年「ザ・タイガース」のメンバーとしてデビュー。解散後、俳優へ転身する。『帰って来た木枯し紋次郎』(93)で日本アカデミー賞優秀助演男優賞、『大鹿村騒動記』(11)で同賞を受賞する。日本映画に欠かせない名バイプレイヤーとして高く評価されている。小栗康平監督作品は、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、キネマ旬報主演男優賞を受賞した『死の棘』(90)、『眠る男』(96)、『埋もれ木』(05)に出演。
1945年10月29日生まれ。群馬県出身。早稲田大学第二文学部演劇専修卒後、フリーの助監督として浦山桐郎、篠田正浩監督らにつく。
1981年、宮本輝の小説を映画化した『泥の河』で監督デビュー。戦争の傷跡を残す大阪の川べりを舞台に、少年と少女のひと夏の出会いと別れを、白黒・スタンダードの端正な画像で描き、キネマ旬報ベストテン第1位、日本映画監督賞、毎日映画コンクール最優秀作品賞、最優秀監督賞など数多くの賞を受賞、海外でもモスクワ映画祭銀賞を獲得し、米アカデミー賞®の外国語映画賞にノミネートされるなど高い評価を受ける。
1984年、李恢成の原作による『伽倻子のために』を監督。在日朝鮮人と日本人少女の愛と別れを描き、フランスのジョルジュ・サドゥール賞を日本人として初受賞、ベルリン国際映画祭国際アートシアター連盟賞を受賞する。
1990年、純文学の極北とも称された島尾敏雄の小説『死の棘』を映画化。第43回カンヌ国際映画祭でグランプリと国際批評家連盟賞をダブル受賞する。
『泥の河』『伽倻子のために』『死の棘』は、いずれも1950年代を舞台にしており、小栗康平監督の“戦後3部作”と位置づけられている。
1996年、自身初となるオリジナル脚本で『眠る男』を監督。動かず、語らない眠る男を主人公に据えて、これまでの映画話法を根底から覆す作品となり、モントリオール映画祭審査員特別大賞を受賞。群馬県が自治体として映画製作をしたこと、韓国を代表する俳優、安聖基(アン・ソンギ)、インドネシアの国民的女優、クリスティン・ハキム、そして次々と注目作に出演していた役所広司が共演したことでも話題になった。
2005年、オリジナル脚本による『埋もれ木』を監督。第58回カンヌ国際映画祭で特別上映された。
著書に「映画を見る眼」(NHK出版)、「見ること、在ること」(平凡社)、「時間をほどく」(朝日新聞社)などがある。
東京生まれ。株式会社K&A企画 代表。幼稚園から高校まで東洋英和女学院に通う。聖心女子大学卒業。
ドキュメンタリー映画『バオバブの記憶』(09)、阿川佐和子原作『スープ・オペラ』(10)でエグゼクティブ・プロデューサーを務める。2011年、一般財団法人「人間塾」設立。日本友愛協会評議員。
映画の世界に足を踏み入れたのは、ウォン・カーウァイ監督の作品に魅了された事がきっかけでした。本橋成一監督のドキュメンタリー映画『バオバブの記憶』、阿川佐和子さん原作の映画『スープ・オペラ』にエグゼクティブ・プロデューサーとして関わらせて頂く中で、映画製作の面白さと難しさを、ほんの少しではありますが、知ることが出来ました。
本橋監督に、御友人の小栗康平監督を紹介して頂いたのは三年近く前のことになります。
その時に、「一緒に藤田嗣治の映画を作りませんか?」というお話を頂きました。
祖父(石橋正二郎)は、洋画の蒐集家で、祖父の家に行くと、フジタの絵を含む沢山の洋画が、いつも出迎えてくれました。幼い頃からフジタの絵に親しみを持っていた事や、芸術に造詣が深かった亡夫が、洋画家の中でもフジタを高く評価していた事などから、フジタ×小栗監督・・・と云う夢のような組み合わせを前に、私に「No」と云う選択肢はありませんでした。
この映画を作るに当たって、私は監督にたった一つお願い事を致しました。
それは“後世に遺る映画を作ること”。私の願いが叶った『FOUJITA』を、一人でも多くの方に観ていただけるように、公開まで力を尽くしたいと思います。
フランス・パリ出身。フランスを代表する著名な女性プロデューサー。映画制作会社ユーロワイド・フィルム・プロダクション代表取締役。2001年の『アメリ』で世界的な大ヒットを飛ばす一方で、数々のアート系の絵映画も世に送り出し続けている。主な製作作品は、『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』 (86)、『シャルロット・フォーエバー』(86)、『マルキ』(89)、『デリカテッセン』(91)、『アリゾナドリーム』(93)、『ロストチルドレン』(95)、『パリ、ジュテーム』(06)、『シャネル&ストラヴィンスキー』(09)、『Ricky リッキー』(09)、『pina/ピナ・パウシュ 踊り続けるいのち』(11)など。
私にとって偉大な映画監督とは、独自のスタイルを持ち、冒頭シーンを見ただけで誰の手によって作られたかが分かる真のクリエイターです。そういう意味では、映画監督というのは世界に非常に少なく、その数少ない人達が映画史に永遠の足跡を残していきます。
小栗康平監督はまぎれもなくそうしたアーチストの一人です。独特な語り口で見る者を映画に引き込み、物語の”共犯者”にさせます。単にストーリーを語るのではなく、想像力をかきたてることによって観客を映画の中に誘(いざな)う…。見る者にとってこれほどの幸福はありません。
小栗康平監督と最初に出会った時、心が通じ合える相手で、映画を作るために必要な相互理解を共に持てる相手だと直感しました。映画作家とプロデューサーの気持ちが通じ合うことは、映画製作において私が最も大切にしている条件です。
制作現場では日々、監督のそばで過ごし、フジタのパリ、1920年代のパリを見つけるお手伝いをしました。胸躍る体験でした。
映画は、驚きと謎に満ちた当時のレオナルド・フジタをたどる私達の道のりを映し出しています。
完成した映画「FOUJITA」をとても気に入っています。レオナルド・フジタもまたきっと、彼と彼の作品を語るために小栗康平監督を選んだのではないでしょうか。
1999年ニューヨーク・フィルハーモニーによる世界を代表する5人の作曲家として作品を委嘱されたミレニアムコンサートなど、世界的に活躍する作曲家。ことにアメリカでは15回にわたって作品演奏会が催されている。ダーティングトン国際音楽祭(09/イギリス)、チェルシー音楽祭(12/ニューヨーク)のテーマ作曲家。CD作品集多数。著書に「耳を啓(ひら)く」(春秋社)がある。
1954年生まれ。福岡県出身。1977年、東北新社 技術部入社。1987年よりキャメラマンとなる。2005年、ティーエフシープラス 代表取締役社長。担当したCM作品「サントリー燃焼系アミノ式」、「CCJC ファンタ」でACCグランプリを受賞。主な映画作品は、『鮫肌男と桃尻女』(97)、『風花kaza-hana』(01)、『雪に願うこと』(06)、『スマグラー』(11)など。
1959年生まれ。神奈川県逗子市出身。1993年、照明技師 石井大和氏の元より独立。『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』(1)、『インターミッション』(13)、『FLOWERS』(10)などを担当。その他CM作品も手掛け、「龍角散 のどすっきり飴」、「サントリー オールフリー」、「日本生命」、「JR東海 奈良」、「TOYOTA TOYOTOWN カローラ」ほか多数。
1960年生まれ。1980年スタジオKEN入社。1984年フリーとなり西崎英雄、紅谷喧一などの助手を務め、『裳の仕事』(91)で録音技師としてデビュー。『ラヴレター』(95)、『蕨野行』(03)を担当。小栗康平監督作品は、『眠る男』(96)、『埋もれ木』(05)に参加。
1948年生まれ。仙台市出身。2001年、『みんなのいえ』、『風花kaza-hana』で毎日映画コンクール美術賞を受賞。また、『ヤマトタケル』(94)、『天守物語』(95)、『ホワイトアウト』(00)、『おくりびと』(08)、『沈まぬ太陽』(09)、『柘榴坂の仇討』(14)で日本アカデミー賞優秀美術賞を受賞。その他に、『東京上空いらっしゃいませ』(90)、『ラヂオの時間』(97)、『雪に願うこと』(06)、『椿三十郎』(07)、『シルク』(08)などを手掛けている。
アルゼンチン出身。『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(86)、『私の好きな季節』(93/アンドレ・テシネ監督)、『とまどい』(95)、『耳に残るは君の歌声』(00)、『愛をつづる詩』(04)、『ジンジャーの朝』(12)、『モーターサイクル・ダイアリーズ』(03)、『オン・ザ・ロード』(12)、『君のためなら千回でも』(07)、など、多岐に渡る監督作品の美術を担当。2007年、『Golden Door』でイタリアのアカデミー賞ダヴィッド・ディ・ドナテッロ美術賞を受賞。世界の映画界で活躍する美術監督。
もともとは持ちかけられた企画でした。とくに好きな画家というわけでもなく、通りいっぺんのフジタ像しか持ち合わせていませんでした。ただ映画の主人公として、画家は魅力的だと思っていました。ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督の「ピロスマニ」などは大好きな映画の一つです。で、勉強してみると、フジタは面白かった。1920年代のパリでの裸婦と戦時中の「戦争協力画」との、絵画手法のあまりの違いに、あらためて驚かされたのです。この両者を分かつものはなにか。文化としての洋の東西、私たちが西洋から受け入れてきた近代の問題など、そっくりそのまま私自身に引き戻される課題でした。
フジタはいろいろあった人、でしたから、ありあまるほどのエピソードが人口に膾炙しています。知っていくとこういう人とはお友達になりたくないなあ(笑)と思えることまで含めて、虚実いろいろです。実在した人物が題材ですし、彼の残した絵画も映画の中で使わせてもらうわけですから、歴史的なことについては知っていた方がもちろんいい。関連書籍も少なからず読みました。でも資料はざっと読んで、早く事実から離れる。それがシナリオを書く作業の始まりでした。
離れると言うと語弊がありますが、これまでに言われてきたこと、こう知られているとそれぞれが知った気になっているようなことを積み上げても、類型的な人物像を上塗りするだけです。映画は、映画という独自な時間の中で成立するのですから、もっと自在でなければいけないと考えます。二時間強の映画になりましたが、20年代のパリと戦時の日本とをそれぞれ一時間ずつ、ほとんど真っ二つに断ち切ったように並置して、描いています。「歴史的」に見れば、ここでの十何年間を跨いでフジタは変節した、などといろいろに言えるでしょうが、断ち切られたのは、生きていたフジタその人だったと考えれば、その感情世界こそが大事になってきます。物語は歴史に縛られがちですが、感情は歴史的事実から自由です。
映画化の許諾条件に日仏合作であることが明記されていましたし、そもそもがパリで暮らしたフジタを撮るのですから、海外ロケに行けばいいという性質のものでもありませんでした。人づてにクローディー・オサールさんを紹介されて、先ず、シノプシスを読んでもらったのです。私の前作「埋もれ木」などをパリの劇場で見てくれていて、私の映画のスタイルを気に入ってくれていました。フジタはよく知られているけれど、戦争画のことは自分も知らなかった、もの凄くおもしろい企画です、やりましょう、とすぐに決断してくれました。日本では見かけないタイプのプロデューサーでした。自分が関心をもてないものはどんなにお金がよくてもやらない。僕と会っても制作の枠組みとかについては触れないまま、時間がある限り僕と話をしたいと思っている。それが伝わってくる。「こういう画が撮りたい」と言うと、いくらでもパリ中を連れ回してくれた。エッソンヌの最後のアトリエ、ランスの教会などにも同行してもらいました。書籍で見るものとは違って、現場に立つといろいろ触発されるものがありました。フランスでの撮影は日仏の混成でしたが、いいスタッフィング、キャスティングになりました。
そうです。オカッパにロイドメガネ、フジタになるなあ、とまず思いました。でもそうした外見以上に、フジタのなんとも言えない、独特な皮膚感覚のようなものがオダギリ君にもあるように思えたからです。結果もよかったと思います。フランス語もよく頑張ってくれました。
期せずして、そうなりました。『泥の河』でデビューして、『FOUJITA』でもう一度、自分の映画的な原点に立ち戻った気がしています。
11月27日、東京府立牛込区新小川町(現・新宿区新小川町)に生まれる。父、嗣章はのちの陸軍軍医総監。
1886年母 政、死去。
1891年東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)入学、西洋画を学ぶ。主任は黒田清輝。
1905年東京美術学校西洋画科本科卒業。
1910年26歳で鴇田登美子と結婚。
1912年27歳で単身フランスへ渡る。シテ・ファルギエールのアトリエに入居、ヴァン・ドンゲン、モディリアーニ、スーチン、パスキン、キスリングらと交流。
1913年7月、第一次世界大戦勃発。
1914年登美子と離婚。
1916年画家フェルナンド・バレーと結婚。6月、パリのシェロン画廊で初の個展を開催。
1917年前年に休戦条約が調印、画家の登竜門サロン・ドートンヌに6点を初出品しすべて入選。キキをモデルに裸婦像を描き始める。
1919年サロン・ドートンヌに「裸婦」を出品。乳白色の肌を絶賛される。
1920年サロン・ドートンヌの審査員に推挙される。
1921年「ジュイ布のある裸婦」制作。
1922年「五人の裸婦」制作。
1923年フェルナンドと離婚、ユキと同居。
1924年フランスからシュバリエ・ド・ラ・レジオン・ドヌール勲章、ベルギーからシュバリエ・ドゥ・レオポルド一世勲章を受勲。
1925年ユキと結婚、17年ぶりに帰国。日本で個展開催。
1929年パリに戻る。
1930年ユキと離婚。マドレーヌ・ルクーと結婚。
1931年日本へ一時帰国。
1933年マドレーヌが急死。12月、堀内君代と結婚。
1936年海軍省嘱託画家として中国に派遣される。
1938年パリに戻る。9月、第二次世界大戦勃発。
1939年5月、陥落直前のパリを脱出。陸軍省嘱託画家として満州国新京(現・長春市)へ。
1940年父、嗣章死去。7月、帝国芸術院会員になる。
1941年陸軍・海軍省から南方に派遣される。「シンガポール最後の日(ブキテマ高地)」制作。
1942年国民総力決戦美術展に「アッツ島玉砕」を出品。朝日文化賞受賞。
1943年神奈川県津久井郡小淵村藤野に疎開。
1944年「サイパン島同胞臣節を全うす」制作。第二次世界大戦終結。GHQの戦争画収集に協力。
1945年日本美術会が結成され、フジタの戦争責任を追及。画家の戦争犯罪者リストが作成される。
1946年GHQが戦犯名簿公表、フジタを始め画家の名前はなかった。
1947年羽田からアメリカへ発つ。
1949年アメリカからフランスへ。
1950年「カフェ」など4点をパリ国立近代美術館に寄贈。
1951年フランス国籍を獲得し日本国籍を抹消。日本芸術院会員を辞任。
1955年オフィシエ・ド・ラ・レジオン・ドヌール勲章受勲。
1957年ベルギー王室アカデミー会員就任。
1958年カトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタと改名。
1959年8月、ランスのノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂のフレスコ画完成。12月、パリの病院に入院。
1966年1月29日、スイスのチューリヒ州立病院で死去。享年81歳。ランスで葬儀が行われる。4月、日本から勲一等瑞宝章を追贈。現在はノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に君代と共に眠る。
1968年パリでの撮影は日仏の混成チームだから、言葉の問題、ものの考え方、感じ方、労働環境の違いなど、いくつもの障壁があることはわかっているつもりだったが、実際に始まってみると思いもかけないことの連続でもあった。
まずは撮影スケジュール。日本の撮影現場では労働時間と言う考え方そのものが希薄である。誉められたことではないけれど、限られた予算の中でとにかく撮影を優先する。しかしフランスではそうはいかない。一日の撮影時間は八時間、終了時から次の開始まで十二時間休息、土、日曜日は休み、など様々に働く人たちを守る法律がある。仕方なく、土、日には日本人だけでできる実景撮影などの予定を組込み、休みを控える金曜日に夜間撮影などの残業を入れたスケジュールを組む。ところが「休みを翌日に控えた金曜日だからこそ、皆早く帰りたいのです。終業はいつもより一時間前に」。
食事はケータリングで、車の中でいつも温かい食事が作られる。デザートつきだ。ロケ弁当などは考えられない。子どもの権利もしっかり守られていて、五歳以下の子を撮影に使う場合には、現場に来てから帰るまで三時間以内。だから、多くの場合、双子を!見つけることになる。
パリは基本として路上駐車。二十年代の撮影だからそれらがすべて邪魔になる。ロケハンでは製作パートから必ずフレームを決めてくれ、と求められた。二つ、三つの通りで、数えて車が五十台車あったとすれば、何日でそれが片付けられるか、はじき出す。三日なり四日なりかけて、車が一台出て行く度に赤いコーンを置いてパーキング・メーターにお金を入れる。徹夜で人がそこに張り付く。パリでのクランク・インの前日、ロケ場所の下見に行くと、まだ何台も車がある。こっちは心配になるけれど、翌日の予定された時間には見事に何もなくなっている。労働時間は厳格だけれど、権利を主張する分だけ仕事はきっちりと間に合わせてくる。ロケ現場でもう最初のカットを撮っているのに、逆向けの壁をまだ塗装していたりする。そっちにカメラが向くときには、ギリギリ、セーフ。 これも権利と責任からくる合理性?
オードはロケーション・ディレクター、ロケ場所探しの専門家だ。小さなお子さんをもつ母親でもある。タフで優しい女性だ。日本ではロケハンは制作部や演出の仕事になるけれど、こういう専門職がある。フランスの事情がわからない私たちの無理な要求にも、オードは豊富な知識と経験で応えてくれる。それでもやはり、監督のイメージに合致するロケ場所探しは容易ではない。その日もフジタのアトリエに隣接するアパート探しが難航した。実りのない一日を終えたロケバスの中は、落胆と焦燥とで重苦しい雰囲気になる。アルゼンチン出身の美術監督、カルロスがオードに何か話しかけた。突然、楽しそうなオードの笑い声が車内に響いた。「近くに美味しい、尼さんのオナラ、が食べられるカフェがある、俺がみんなにご馳走してあげる」「尼さんのオナラ?なんだそれは!」「食べればわかる」。しかし残念なことにその日、店ではすでに売り切れ。どうもスウィーツらしい。翌朝、ロケバスに乗り込んできたオードが「これが尼さんのオナラ。上手く出来なかったけど」と恥ずかしそうに紙袋を差し出した。早起きして作ったのだそうだ。小さな、丸い揚げパンのようなそのお菓子は、柔らかくて上品な甘さがあった。ロケハンの空振りで気が滅入っていたスタッフへの、もっとも気落ちしていたはずのオードからの優しい心配りだった。 皆、感謝とともに尼さんのオナラを有難くいただいた。そこに「美味しいけど、オードのオナラはちょっと大きいな」という声が聞こえてきた。なんということを言うのだ、カルロス。
パリ撮影のハイライト、フジタナイトのシーンはマレー地区にある国立歴史図書館の中庭で撮ることになった。庭の中央を貫くようにセーヌ川を作りたい、と監督が言い始めた。しかもビニールで。「ワオ!トレビアン」。いつもは冗談ばっかり言っているカルロスの目に火がついた。翌日、大きなパソコンを担いで現れたカルロスは、もうスケッチを描いていた。「マエストロ、川はこの色、黒でいいか?それともフジタの乳白色がいいか?」「うーん、やっぱり白だね。それに波」「分った。静かにうねるような波にしよう」。一か月後、パリ郊外の特撮工房には、扇風機が仕込まれた「川」ができていた。
こうしてフジタナイトは撮影された。パリから東と西へ遠く離れて生れ育った日本人とアルゼンチン人のコラボレーション。映画発祥の地、パリへの感謝と、あの偉大なフェデリコ・フェリーニへのオマージュでもあった。
フジタが疎開したのは史実では神奈川県の藤野。相模湖に近い街道筋の村だ。
映画ではこれをF村と呼んで、はっきりと史実から離れている。フランスでのフジタと日本でのフジタは、生きざまも残した画も大きく違ってはいるけれど、そのフジタを両の手のひらに包み込むようなものとして、日本の村を考えてみたい、が監督のイメージだった。ステージでのセット撮影がいいのか、大胆なロケ加工がいいのか、オープンセットがいいのか、試行錯誤が続いて、なんとそれが建ち上がったのはクランク・アップの一ヶ月前のことだった。ビール工場の跡地の、何もない広大な敷地を借り受けて、重機を入れて道を作った。道の際に軒の低い一軒の店。周辺には田畑が広がり、遠くに里山が連なっている。植栽もして、CGとの見事な協同になった。撮影時には大型のクレーンで暗幕を張って、店の周辺、人物まわりの直射光線を遮る。画像としての抽象化を高めるためだ。なにしろこの村には、キツネが人といっしょに生きているのだから。
カメラはデジタルの4Kである。現在のデジタルカメラはフィルムとは比べ物にならないほど、大きなラチチュードをもっている。そのどこを選択するかによって画像はまったく違ってくる。映画撮影がフィルムからデジタルになって以降、初めてその特徴を積極的に生かした撮影技術、照明技術は特筆に値する。